メーカーへの棘の道
工業デザイナー、商人になる〜JIDAデザイン&マーケット委員会から
堀内智樹
プロローグは、現、東日本ブロック長(当時はフリーランス委員会のギフトショー担当)の佐野さんからギフトショー出展の誘いの電話を貰ったのは、8年前の2007年の11月。早くもストーブが焚かれた県の工業試験場で打ち合わせの最中だった。
ギフトショーか・・・。興味が無い訳では無かった。
工業デザイナー、商いを始める
1年前に自社で開発した、特殊なLEDライト3種類(11トンダンプで踏んでも壊れないJR保線用マーカーライト、200度の蒸気滅菌が出来る医療用クリップライト、試験場で正真正銘10気圧防水試験を通過したダイバーライト)を自社製品として持っていた。
しかし、あまりに特殊で高価なライトな為、そう簡単に売れるものでは無かった。丁度、それらを市場に晒したいと考えていた頃、タイムリーに佐野さんからギフトショーに誘われたのだった。
かくして翌2008年2月、初めて製品をギフトショー会場に持ち込んで自ら販売を行った。
しかし、自分自身、販売といってもこれまでにフリーマーケットでモノを売るくらいの経験しかなかった。
ギフトショーには一般来場者は入場できず、全国からバイヤーが商材を求めて真剣に商談を行う場である。その特殊性が珍しいのか、かなりのバイヤーの興味を惹いた。しかし、モノの売り方が全く分かっていなかった。
“上代は?”“掛け率は?”“パッケージは?”“取引条件は?”矢継ぎ早に質問が飛び、即答できない自分はひたすら頭を下げるしかなかった。
これが40過ぎて初めて“商い”を知った瞬間だった。

モノを売ることの本質を知る
山の様に交換した名刺を抱えながら、最初のギフトショー体験は終わった。しかし、全く売り方を知らない為に、商談が成立することは無かった。今思えば“珍しいモノを作っている会社”とだけ認識されて、生き残りのために商材を探しているバイヤー達にとっては有り余る選択肢の中で早々に候補から消えていたのだろう。
2度目のギフトショーの参加は、バイヤー達との話が出来る様に、いろいろと準備をして臨んだ。しかし、まだ“上代の設定”などは無知だったと言わざるを得なかった。それでも、会期中に交換した名刺を頼りに、アポを取り、追っかけ営業を行ってみた。しかし、決定的な商談にはならず、その商談にならない理由も判っていなかった。だが、これまでデザイン業しか経験の無い自分にとって、全く新しい世界に居ることに気づき、当てずっぽうに営業マンを気どっていた。
更に、取扱商品は在庫などのリスクを負うことは無く(関係会社が製造、在庫を行っていた)自社製品とは言え、真の意味でのメーカーでは無く、販売委託を受けているだけで、デザイン業を傍らにして今思えば、必死さには欠けていたことは否めない。そのような状態で3回のギフトショー参加を続けていた。

メーカーになってしまった
10年ほど前に長野県飯田市の工業アドバイザーを受託していた頃に、飯田市が日本有数規模の革なめしや革工業の集積地であり、世界でも数社しか生産できない、馬の臀革“コードバン”の生産地の一つであることを知った。
転機が訪れたのは2010年9月、東日本大震災が起こる半年前だった。
丁度その頃、皮なめし会社(タンナー)の社長から、自動車内装関連の仕事のウエイトを下げ、これまでランドセルのみの展開だった信州産のコードバンを使った製品化の相談を受けていた。LEDライトの営業ゴッコをしてきた自分は何を勘違いしたのか?後先を考えず、その“馬革製品のメーカー”になることを決めてしまったのだ。
当然、自社でミシンを踏むことは出来ない。革材料を購入し、縫製職人にこちらで企画した製品を外注して製造してもらう、所謂ファブレスメーカーである。
自社の馬革製品ブランドを“q-HORSE”と名づけて棘の道を歩き始めたのである。
このときは、デザイン会社の第二事業として甘い夢を持って始めたのだが、仕入れの無いデザイン業とは全く勝手が違っていた。
自分の売る商品の値付けの仕方も判らないまま、ギフトショー出展を続ける中、日本最大の通販雑誌に掲載されベルトを販売するという商談が舞い込んできた。しかし、浮かれているのも長くは続かなかった。値付けを間違えるという致命的な失敗を仕出かし、1500本も売れたのに何故かお金が残らない。オマケにその理由が判らない。
こうしていきなり赤字を抱える船出となってしまった。

当時は中国縫製のコードバンを格安で販売していた。
本物へ。海外へ
コードバンという革素材は、牛革の30倍近くもする。“革の宝石“呼ばれる。
原皮は欧州産の馬だが、その皮を革にすることが出来るのは世界で3社のみ。
そのうちの1社が我が県、信州・飯田のタンナーだ。
当初は中国で縫製したコードバン素材としては破格の製品を卸してもらい販売を開始した。しかし、円安で海外輸入原皮の高騰が続いた。この事業を始めてから3年で3割も値上がりした。
そんな中、ギフトショー出展中、ある大手百貨店のバイヤーからこんな言葉をかけられた。“希少なコードバンを中国製にして、なんでこんな安物にして売っているの?”
はっとした。この言葉が、革の宝石に相応しい“本物”の商品を目指すきっかけとなった。
そして全製品を日本製に変えるべく職人を捜し始めた。しかし、失われた20年、日本のものづくりは、革縫製職人の仕事奪い、多くが既に廃業となっている事実を知る。
それでも辛うじて、やる気のある3社の縫製職人と契約を結び“ハンドメイドジャパン”を売り物に、製品仕様、ブランド構築を仕切り直した。
もう、安く売る理由は全く見当たらず、本物を極める方向しか進むべき道は無かった。
先ず、オリジナル素材開発を、補城金を利用して行った。信州産の蜜蝋や馬油で仕上げた世界で唯一の素材が出来上がった。
仕上げも職人と共に、年々クオリティーを上げ、最高の金具、総革張りのインナーとその時点でやれることはやった。
しかし、その代償で製品単価も高騰し、半端なショップでは売れない程高価なものになった。不景気の続く日本で販路拡大に四苦八苦する中、偶然、中国・蘇州での日本の文化・製品を売り込む展示会に参加することになった。そして、人口13億の中国で馬革の市場が“ほぼゼロ”であることを実際に現地に行って知ることになり、これが中国での市場開拓のきっかけとなった。

画像右:自社ブースの様子。初めて中国で日本のランドセルを持ち込み紹介した。 今ではランドセルは中国でブームとなっている。
中国への市場拡大。新たな課題
その後、富裕層の最も多いと言われる上海を中心に6回、様々な商談会に出て、多くの高級品を扱うバイヤーと商談を重ねた。
しかし、多くの商談を重ねるうちに、中国で商品を売るのは簡単でないことが明らかになった。個人でハンドキャリーで持ち込み、サンプルとして配るのは問題ない。
しかし、有料で販売するとなるとこれは違法だ。
正式に輸入手続きを踏んで、税金を払わないと販売できないのだ。
また、現地に法人を持たない場合は、代理で販売権を持つ現地の会社と代理店契約を結ぶ必要がある。
中国へ渡る度に知り合いは増える一方だが、代理店を探す方法も見つからず、もがきながら2年が過ぎた。4000年の大陸文化の中で、騙し合いが商売のデフォルトとなっている中国で誰を信用して良いかが判らなかった。
そして今年、9月に念願の上海伊勢丹メンズ館オープンで弊社の“q-HORSE”製品は取扱ブランドとして採用された。同時に、信頼できる筋から、信頼できる代理店を紹介された。これで大手を振って中国での商売が始められる。
高価格な革製品を扱うきっかけとしては中国国内百貨店クラストップの伊勢丹採用はこれ以上無いチャンスで小躍りして喜んだ。しかしそれも束の間。
中国での委託販売は、日本の様に上代に掛け率で卸せば良いという単純なものではないことを知る。
中国での正規販売の商品上代の内訳は、商品の卸値+百貨店の手数料(売上の40%~50%)+販売面積の地代+倉庫料+什器代+代理店の手数料(売上の10%)+販売員の給与・制服代・保険・交通費・食事代・保険代+送料+消費税(贈値税)+関税+法人税を上乗せして計算するのだ。これは製品にも依るが単純に日本の上代の2倍~3倍になる。
飛行機代を支払っても爆買いに来日する中国人の事情が皮肉にも理解できた。
9月26日オープンに間に合わせるべく、なんとか輸入手続きを済ませ、納品に漕ぎつけた。
実際にオープン初日から2日間店内に立ち、デモを行ったが、仲秋節と国慶節が重なり、伊勢丹に足を運ぶ富裕層はみんな海外に出ているとかで鳴り物入りでオープンした中国最高ランクの伊勢丹メンズ専用フロアーは閑散としている。
最初の顧客となったのはフェラーリを乗り回す、30代のファッション店のオーナーだった。金持ちは確かに居るのだ。
これは最初のユーザーが“馬繋がり”で縁起の良いと喜んで購入いただいたのだが、その後、自分の滞在中に他に商品が売れることは無かった。
この原稿を書いている日はオープンから2週間。代理店に問い合わせるとまだ殆ど売れていないという。中国ではクリスマス(まだ日本ほど浸透していない)、年末(大晦日が1年で最もプレゼントを交換する日らしい)、春節と、この3カ月が年間の50%を、売り上げを上げる中国独特の商機になるらしい。
逆にこの商機に乗れない場合は、絶望となる訳で、想像しただけでも恐ろしいのである。果たして、来年この事業を続けていられるのか?神のみぞ知るのである。

画像右:上海で最高級ブランド店が立ち並ぶ上海梅龍鎮に上海伊勢丹がある。



幸先が良いと喜んだものの・・・
■執筆者 堀内智樹 デザイン&マーケット委員会
有限会社ケルビム URL: http://www.q-horse.jp/
■執筆者略歴
19xx年 東京生まれ。
ブラックジャックにあこがれ医療の道を目指した後、ポリシーや哲学の無い製品があふれている不満と絵を描くことが好きだったことからこの道へとすすむ。
JIDA正会員。