御園コラム
第一回JIDAフォーラム「デザイン思考」のデザインを聴いて・・嬉しいような、無念のような
御園 秀一
JIDAビジョン委員会委員である御園秀一による、歯に衣着せぬ辛口コメント。今回は、第1回JIDAフォーラム「デザイン思考のデザイン」を聴いて・・・。
■ 「デザインはカッコ良くなきゃ」
「デザイナーはカッコいいデザインをやってりゃいいんだよ!と役員に言われました」という話を、最近会社の後輩から聞きました。「それで、何て答えたの?」、「はいはい、って言っておきましたけど」、「ふう~ん」。
お断りしておきますが、この会社はデザインが大きな購買動機となる商品を作っている会社で、世界的にも最大級のデザイン部門の陣容を誇っています。近年デザイナーが取締役会のメンバーとなるなど、新時代の到来を感じていたところでした。我々が若い頃は、「会社はデザインは大事だけど、デザイナーは大事じゃねえんだよな」とぶつぶつ愚痴ってたことも思い出し、その頃とあまり実態は変わりないのかとも感じて、ビールが進みました。
私から見れば若いこの役員さんは、デザイナーが力説しているマーケットトレンドや、ユーザーターゲット、そしてコンセプト、それを具現化するパッケージや技術的ニーズなどを聞きながら「うざってーな」と感じていたのか、余程気分の悪い会議の後だったのでしょう。
私の業界に限らず、従来、「デザイン」という機能は、商品企画から製品企画、デザイン、設計、生産技術設計、生産、販売、アフターサービスといったリニアな仕事の流れの一つとして位置付けられていました。この流れの中では確かに「デザイン」とは予め定められたスペックに「かたち」と「いろ」を与える機能として位置付けられていたのでしょう。しかし、我々の会社でも既に80年代の始めにはそういったデザインの限定的な位置付けから機能拡大し、海外のデザイン拠点を含めたデザイン部門からの新コンセプト提案が新たな市場開拓に貢献して来ていました。
■「馬から落ちて落馬して」
ところが、近年、逆にデザインの機能が妙に原点回帰して、またぞろ「かたち」と「いろ」の世界に集中してきたような気もします。ひとつには新興国からの挑戦をはじめとするかってないほどシビアな「デザイン戦争」が起こっているからかも知れません。つまり、「本業(?)」の質を上げることに集中していないと、あっという間に競争から脱落する危機意識が身を小さくさせているのかも。
我々が現場で「血の小便をして地べたを這い擦り回る」ような仕事をしていた時代も、今にして思えば「追う身の気楽さ」はあったと言えないこともないし、その頃はそこそこ頭を使えばある程度新鮮味ある商品を提案することも可能でした。それに比べたら、本当に今の現場は大変なのでしょう。
いやいや、「デザイン思考」のデザイン、の話をしなければなりません。そのような気分でいたところに、ビジョン委員会でこのフォーラムの計画が提案され、私もメンバーとしてその計画に参加しました。ところが、「デザイン思考」の意味からして私には良く理解出来ない。馬鹿なことばかり言って、皆さんを困らせました。
だって、そもそも「デザイン」に「思考」って言葉が付くのが変じゃないの?「デザイン」って元々計画、設計、果ては企みって意味があるくらいで、思考そのものじゃないかい。そりゃ「馬から落ちて落馬して」みたいな言い方だねえ、とか。
デザイナーの世界が「かたち」と「いろ」に拘りすぎて、頭を使っていないという批判は良く分かるし、俺だって、時々頭に来て、「デザイナーなんてバカばっかりだ!」と喚いてるから、古典的な(?)デザイナーの考えている領域を超えたデザイン概念の重要性は分かるし、そこが出来ていないのも、「すみません」ということなんだけどね。でもさ、デザインの市民権確立のこれまでの苦労や、ものづくりの難しさ、造形スキルの何たるかなど知らない頭の良い先生方に「デザインとは」と講釈垂れられるのも業腹だねえ、とか、まあ、勝手なことを言っていたわけです。
そこで、委員会の皆さんは私を持て余し、とにかくフォーラムを聞いて、また感想を聞かせてくださいと優しく仰って下さいました。
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■ 「ビジネスの新しいツール」
まず、びっくりしたのは、私の予想をはるかに超える参加者の多さでした。しかも、いわゆる「デザイン関係」よりも、他の分野の方が多い。何しろ7割がJIDA会員以外とのこと。なるほど、「経営の隅々にデザイン思考を活用する」というビジネススクールの戦略は効を奏していそうだなと思ったことでした。皆さん大変熱心にメモをされていましたし、質疑応答も活発でした。ところが、何と、何と、私の業界の人は一人もいないではないですか。これにはさすがの私も「う~ん」と唸ってしまいます。後日、「デザイン思考って言葉知ってる?」と現役後輩諸氏に聞いてみました。「はい?」っていうのが返事でしたね、アバウトで言うと。やっぱりね、そうだと思ったよ。
さて、「デザイン思考」についてのお三方のお話を伺い、率直に言って、「目からウロコ」というよりは、さすがにデザインの仕事で大切なところをきちんと整理してお話頂いたな、ということです。紺野登さんは「デザインのスコープは拡がり、人間と社会の新たな関係性の創発だ」と言われた。その通りですね。まさに”How to do”から”What to do”を考えないと。
ケビン・クラークさんのお話も、与件の問い直しとユーザー体験を話された。うん、そうだそうだ、そういえば似たことをやったっけ、ユーザーに新しい経験を提供するってのはまさに昔から新製品開発のポイントだし。でもそれでどうしたと自分でまとめていないのは確かに俺達は弱いな。
平田智彦さんはブランドとの関係性について述べられた。ブランド論は我々の業界でも一言も二言もありますが、それは自分のところの話であって、平田さんの様に一般化した論理にはなかなかなっていないなと、じくじく反省しつつ拝聴しました。
スピーカーの方々のお話は実践に基づいていますから、大変説得力がありました。ところが、お話を伺った後で、「デザイン思考」が良く分かったかというと、やっぱり良く分からない、大変失礼なのだけれど、結局のところ、我々がこれまでやってきた、あるいはやろうとしてきたことの中で、重要なこと、一般性があることを体系付けて、その考え方の根幹のことを「デザイン思考」と呼んでいるのかと。でも、なぜそれが今盛んに言われるのでしょうか?
「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です」という本を書いた30年経験のビジネスコンサルタントがアメリカにおられるそうですが、ビジネス論の行き詰まり打破のためにデザインの方法論、もしくは方法が新鮮に見えているのでしょうか。
■ 「内側の人、外側の人」
我々の業界のデザインはいまだに20世紀にいる、と私は時々自嘲的に言っています。40年以上も前からこの業界で仕事をして、気付いてみるとツールこそ新しげにはなったけど、そのプロセスは殆ど変化していません。そして、経営的思考をする機会は増えて、そのための部署も出来てはいるけれど、まだまだ企業の中で中心的な役割を果たせてはいない。
しかし、我々の先輩方が大変な苦労をされて、そのプロセスを確立され、その中で沢山のことを我々に教えてくれた、そのことは大きな宝物だと思います。残念なことは、そういった「神様からの教え」がきちんと体系づけられて、一般化されていないことではないでしょうか。その「教え」の大切な部分を古典的なデザイン世界の「外側にいた人」の方が発見し、拾い上げ、体系付けて、より多くの人達のためになるように加工されるのであれば、「内側にいた人」としては、「嬉しいような、無念のような」という気持ちでしょうか。
今回のフォーラムを拝聴していて、何となく胸苦しさを感じたのは、この「嬉しいような、無念のような」という気持ちのせいかもしれません。我々「内側の人」も、もう少し自分達の財産を大切にして、うちの部が、うちの会社が、という水中から水面上に頭を上げて、世の中を見ることを時々はしないといけませんね。最後には「ビジュアルに未来を示せるのは我々だけだ」という誇りを持ちつつも。でも、ビジュアルも論理の裏づけがなきゃね。
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■執筆者
御園 秀一 JIDA理事。株式会社テクノアートリサーチ顧問
■執筆者略歴
トヨタ自動車(株)デザイン本部副本部長、理事としてオールトヨタデザインをスーパーバイズすると共にデザインフィロソフィーの確立を導いた後、2004年にトヨタデザイングループ会社である(株)テクノアート代表取締役社長就任、2012年より現職。
千葉大学大学院客員教授。JIDA理事。